明日もパソコンと過ごす

大体適当なことを書いてるブログ

2年前の自分は強烈だが、自分の思考方向に誤りはない

2年前の自分のブログを読み返し、非常に過激な発言が目立った。しかしながら、私は自分の思考法を言語化することで、大切なものを獲得できたと強く感じている。一般的に見て、自分がクセモノなのは自明だろう。それでも自分の旅路に誤りはない。自分が自分であるために、それを確立するために言語化し、ブログを公開、今に至る。

 

自分の導き出した結論は別の観点からすれば誤りかもしれない。あくまでも主観であり、また当該記事内で触れた対象、或いは現象に於いて客観性を伴うことは不可能であるから、多角的な立場から熟考しなければならない。自分の思考法はAを是とする、Bは非とするといった、比較的(優劣)な方法ではなく、様々な視点からみれば正解であり、誤りでもある。いやむしろ、正解や誤りといった観点から審判を下さない。

 

自分の視点からではジャッジに限界がある。自他ともに保持しない視点(思考)を持つのならば、見解が異なるのは妥当だ。では自分がやりたかったことは不明確ではなかろうか。そもそも始点から目的意識なんてなくて、兎にも角にも思考の分解に徹していたように感じる。当時の心境を振り返ることは私にはできないし、記憶の改ざんも容易である。

 

包み隠さずに言うと、過去のエントリーにも明記したように、自分は合理主義者に近いものがあり(言動不一致なところはあるが)、それはステレオタイプ的な合理主義者(冷淡/非情)ではなく、たとえば口論が目の間にあれば、鎮静を保つほうが合理的だと判断したら実行する。けれども、各当事者の視点は実際どうなのだろうか。何が起因してそうなったのか、表層だけでなく、深層も踏まえた上で、誤解を恐れずに一般的に用いられている表現をするならば、自分の視点(主観)から客観的に判断しなければならない。

 

そこに至るまでのプロセスに目を当てる必要がある。即ち、表層にある結果からは判断するのは早計ではないか。人間は複雑である。もしも、本人が元気だと口にしても事実とは限らない。それなのに、表層の目に映るものだけで判断するのは危険性を伴う。水面下のプロセスを考慮しなければならない。

 

もちろん、感覚的に常日頃から実行できている人はいいのだが、私には限界がある。自分が実行に移そうとしても、もう限界なのだ。であれば、自分は他の手段を執るしかない。そこで論理性を意識した。そのためには思考力を身に培養する必要があるし、感覚の対岸にいるといっても過言ではない。私は感覚的なことが不得意だが、その一方で本エントリーのように思考を用い感覚的な問題を打破していく。即ち、自分の成長過程に於いては過激な発言や思考はやむを得なかったのではないだろうか。しかしながら、事象の正当化は私の中だけの問題であり、前述した絶対的な矛盾点が存在するため、正しさは個人内でしか意味がない。

 

私が私であるならば、他人は他人であり、水面下にある過程が異なるのだから、直接的な干渉は不可能でしかないし、また自己確立として、名辞と化す。自分と他人に於ける葛藤で生じた産物が過去のエントリーであり、その過程で得た思考法は今も役立っている。峻別した上で、個人を名辞のフィルターを介すれば、すべての独立した存在を許容できるし、中庸を保てるからだ。実社会も当然考慮するべきだが、個人をどうするかのほうが遥かに重要である。過去の出来事はそこにしかないが、知識の1つに於ける過程としては重要だったと自分の中では考えている。