明日もパソコンと過ごす

大体適当なことを書いてるブログ

感情論はいかなる論理を用いても従わせられない

感情は論理で従わせれない

 

私は日々これを意識してコミュニケーションを取るようにしている。しかし、自分に対しては例外的だ。自分が不快な感情を抱いたときに「論理で従わせる」あるいは「論理的には〇〇だから」と言い聞かせて自制していた。

 

ところが、自分の感情を論理で従わせてまで我慢したり、発言を控えるというのは自身を蝕んでいくことに気がつかなかった。愚の骨頂大賞だ。さて、勘違いしないでいただきたいのは、私は感情論が苦手というわけではなく、むしろ人間らしくて好きだ。

 

では、なぜ自分の発言を力でねじ伏せようとしたのか?私は感情的な人間で、人に迷惑をかけてしまうことを恐れていた。それだけでなく、論理があれば自分の感情をコントールできるのではないか?と盲信していたのだ。強いていうなら、ロボットになりたいと切望したこともあった。

 

それくらい、自分の感情が憎くかったのである。しかし、それでは自分のエネルギーを消耗していく一方であり、感情的になりやすい状態になる。むしろ悪循環である。聡明な人なら自覚してやめるだろう。私はそれを鈍感なほどに自覚していなかったし、数年間も自分の首を絞めていたのだ。

 

故に、自分の感情を論理で従わせるのは自傷行為である。もちろん、堪えたほうがいい場面ではそうするべきだろう。  しかし、自分の欲求や相手に伝えたいことを「論理で沈める」のは論理的ではない。すなわち、論理的に考えれば「自分の感情を何れかの形で伝えた方がいい」のである。したがって、合理と感情のバランスをとりつつ、コミュニケーションを取ることに徹する。

 

余談だが、世の中には自分の感情を論理で従わせれる人も少数だが存在する。正直なことを言うと、そういった人たちは尊敬できるし憧れる。しかし、私にそれはできない。無理なものは無理と、潔く諦め、自分が快適に感じる方法を模索したほうがいい。

 

どうやら私は回り道をしていたようだ。周りの、論理的かつ、理性的な人間に憧れすぎていたのだろう。彼(彼女)らの性格(気質)と私のそれは異なるのだから。