明日もパソコンと過ごす

大体適当なことを書いてるブログ

中身がないと言わないだけは異なる

先日、「中身のない人間は自分の意見を持たない」との記事を読んだ。私も以前、知人から「上っ面の言葉だけで中身ない」と言われたことがあり、それに対して「私は言わないだけ。〇〇が☓☓で〜」と、より掘り下げた意見を述べたら理解してくれた。

 

18歳、クソガキの考えではあるが 、同じようなことで悩んでいる方々の役に少しでも立てればと、このエントリーを公開する。

 

私は「あえて自分の意見を言わない」ようにしている。それに対して「腹黒い」だとか、「ずる賢い」だとか、そんな指摘を受けるかもしれない。しかし、これには正当な理由がある。それは、私が「正論」を言ってしまう傾向にあるからだといえる。しかも、相手の感情を抉るようなえげつない物かつ、相手から煙たがられるくらいに「掘り下げる」からだ。気質なのだろう。

 

私はストレートに発言してしまう性格だ。これを見たあなたは、「相手の気持ちを考えて発言しない 」「思考回路が単純」と解釈するかもしれない。事実、その通りだし、私は合理性を最優先とするリアリスト(現実主義者)だから、苦手意識を持たれてしまうこともあるだろう。

 

だからといって、私が冷徹な人間であるということだけは勘違いしないでほしい。先に述べたとおり、私は合理的で現実的な判断をより好む。

 

たとえば、友人と揉めたとする。

その時に、「〇〇くんが嘘をついたからこうなったのでは?それを人に責任転嫁するのはよくないのでは?」と、こちら側が反論すると仮定しよう。それをしてまうと、相手の感情を逆撫でてしまう。だから、私はその場で「謝る」ことにしている。騒動に発展するということは、互いに不満が生じたからだ。なにも、相手ばかりが悪いわけではなく、こちらにも否があるのは事実で、そこで一歩引くのが合理的だからだ。余計な争いは起こさない。後術するが、言いたいことがあるのなら「その場で言わない選択肢をとる」ようにしている。そこで発言してしまうと、その発言に対する責任が発生してしまうからだ。

 

そして、それは一部の例外的な場面を除き、誰に対しても変わらない。それが親友であろうと、恋人であろうと、私は「自分の意見を言わない選択肢」をとっている。もちろん、正論以外の意見もあるし、確固たる意見は持っている。それでも、そこにあるのは「非合理的」で、リソースを割くのが非効率的だから言わないのだ。仮に、モヤモヤすることがあっても自己解決を心がけるようにしてる。それでも駄目な場合は、誰かに聞いてもらう。前述した「その場で言わない選択肢」だ。

 

更に、個人が意見を述べるときというのは、感情に基づいて意見を述べることが多いはずだ。いうならば、それは私情でしかなく、それに首を突っ込んでいくのはお門違いもいいところであろう。だからこそ、私は受け身な選択肢をとる。

 

ここまで書いてきた内容と矛盾してしまうが、「然るべき場面」では発言する。具体的には、なんらかの組織における会議や、討論会など、感情に基づいた発言が限られている場面だからだ。

もともと議論を好むこともあって、そういった場所では積極的に口をひらく。それは許されるからだ。

 

要約すると、「本音を口に出さない方が建設的」なのだ。それでは、深い人間関係は生まれないと指摘を受けるかもしれないが、年月を重ねることによって「互いが見えてくる相手」ならば「実は深い関係」が築けているとかんがえている。もしも、互いに沈黙の状態でも気まずくない相手があなたにいるのであれば、その人は大切にしてあげてほしい。表に出さないあなたのことを汲み取ってくれるはずだから。

 

世の中には、私のような人間を排除するシステムが機能していることだろう。いつの日か、そのシステムに対して反旗を翻す日が来ることを心から願いたい。